私は無力だ。それでいいじゃないか。心底そう思えた時,何かが死んであなたは真に生き始める。

アル中詩人~手ぶらの乞食~かく語りき

アル中地獄からの生還とその言葉たち

さよなら子供たち

 

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みんな子供だった

 

あれはまだ私が保育園の頃だ。

ある日の遠足の出来事。

みんなで山を登った。

昼食の時間になるとみんながそれぞれ持参した

弁当を広げた。

タコウインナーや卵焼き

それにメロンやなんかも入ったしゃれた弁当の子もいてね、とてもにぎやかだった。

 

私も早速カバンから自分の弁当を取り出して

蓋を開けたのだけれども愕然とした。

白ご飯に黒光りした昆布が乗っているだけの

なんとも殺風景な弁当だった。

辺りのにぎやかさとは裏腹に私は強烈な惨めさに襲われた。

「みんなの弁当とぜんぜんちがう!」

こんな弁当を持たせた母に怒りすら覚えた。

 

私は恥ずかしさでいっぱいになり

ひとり離れた場所に座り

昆布のこびりついた蓋で弁当を隠した。

「誰にも見られたくない」そんな思いで

泣きながら急いで白ご飯と昆布を口に掻き込んだ。

一刻も早くこの殺風景で貧相で惨めなモノクロ弁当

をこの世から抹殺したかったからだ。

 

今となっては笑い話だが

子供はちょっとした事で傷付くんだね。

 

傷付かない子供はいない。

誰もが傷付きながら大人になる。

 

自我を超えて

 

「私」という思い

その思いは自我の芽生えだ。

私と他者という境界の線引きと比較は自我の芽生えと共に成長して行く。

先にも述べた“弁当のお話し”の様に子供の頃から比較競争は既に始まっているのだ。

無意識のうちに自分の弁当と他者の弁当を比較して

優劣を決めていたんだね。

 

考えてみればその比較競争はずっと続いて行く。

学校の成績

就職

地位や名誉

競争化社会

 

一体誰に勝ち、誰に負けるというのか?

実は母が持たせてくれた弁当

それだけで十分幸せではなかったのか?

 

仏陀は言った。

”平静であって、常によく気をつけていて、

世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。

また自分が優れているとも思わないし、

また劣っているとも思わない。

彼には煩悩の燃え盛ることがない”

(ブッダのことば~スッタニパータ~中村元訳より)

 

比較は苦を生むだけだ。

 

前に何かのテレビ番組で観たのだけれど

地位も名誉も財産も

全て手に入れた男の話をやっててね。

その男が豪華な自分の船に乗って

高級食材を前にして

ワイン片手にインタビューを受けていた。

 

幸せについて訊かれた時

男は海を眺めながら言った

「あの若者らを見てご覧よ。輝いててるね。

実に幸せそうだ」と。

 

その視線の先にあったのは

小さなボ-トを漕いで

はしゃいでいる若者たちの姿だった。

 

つまり何が言いたいかというとね。

比較というシーソーゲームから降りる事だよ。

 

比べるべきものなどなにひとつないし

あなた意外誰も居やしないのだから。

 

その証拠にあなたの子供時代のあなたや

あなたの周りにいた子供たちも

もう何処にも存在しない。

 

今も変わらずにあるのは

目撃者でもなく

目撃されたものでもなく

“目撃”だけだ。

 

もしあなたの中で悲痛な子供時代を

その傷付いた子供を

握りしめているならば放してあげなさい

 

「よく頑張ったね、さようなら」と言って。

 

あなたは今でもそしてこれからも

透明なままだ。

 

 

ごきげんよう