私は無力だ。それでいいじゃないか。心底そう思えた時,何かが死んであなたは真に生き始める。

アル中詩人~手ぶらの乞食~かく語りき

アル中地獄からの生還とその言葉たち

手ぶらポエム「日曜日の朝に」

「日曜日の朝に」手ぶらの乞食


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しんとした朝

線路沿いの小道を

ひとり歩く

 

フェンスとガードレールが水先案内人

さぁさぁこちらへ

 

小道にはラメ織りのカーペットが敷かれて

お出掛けですかと電信柱がお出迎え

 

やぁ諸君らおはよう

って挨拶すると

 

空高く電線を掲げて

電信柱がスタンディングオベーション

 

駅のホームに着くと

うっすらと朝陽が昇りはじめて

 

来た道をふりかえる

 

電信柱が手を振っている

どうぞ良い一日を

 

手にした電線をはためかせながら

 

 

二度とは見ないこの光景を前に

 

吐息の白は黙ったままで

 

陽のひかりをキラキラと浴びながら

 

どこかへ消えていった

 


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楽曲「拝啓トーベンクールマン」手ぶらの乞食

https://youtu.be/E7-cU_OwU84

 

 

YouTubeチャンネル

手ぶらの乞食の「小芝居劇場」

https://www.youtube.com/channel/UCOOGOH4uCO3-fliOc_ltZzQ

タイムマシンは辿り着かない

時間の消滅

時間というのは不思議なものだ。

過去→現在→未来と

一方向に向かって流れているように思える。

しかし、よくよく考えてみるとおかしな話だ。

現在起こっている現象が過ぎてみれば過去になる。

一体その過去とやらは

何処へいってしまったのだろうか?

湯水の如く何処へともなく消え失せる。

全ては流転変化し続けて

“たった今”でさえ掴むことは出来ない。

 

そして未来は常に未知であり

何も描かれていないキャンバスのようなものだ。

例えばあなたが電車に乗っていたとして

次の停車駅が未来だとする。

しかし電車が次の駅に到着するや否や

それは現在となり過去となる。

つまり掴めるものなど何ひとつないことになる。

 

物理学的見地によれば

過去の証拠は岩と化石しかないのだそうだが

その化石を発掘して「これは約5億年前のものだ」と

言ってみてもそれは現在の見解でしかない。

 

あなたがゆで卵を食べて

「私が食べました」と剥き散らかされた卵の殻を

差し出してみても卵の中身の行方が知れないように

時間は物質がもたらした錯覚でしかない。

 

もし仮に身体を持たず純粋な意識としてあるなら

見るべきものも

触れるべきものも

聞くべきものも

味わうべきものも

嗅ぐべきものも

ありはしない。

 

私や他者の区別もなく

何処まで行ってもあなただ。

もっとも何処という距離さえもない。

つまり時間もないということだ。

 

裸の意識だけが漠然と在る!

 

 

おめでとう。

 

ようこそ!なんにもない世界へ!

 

 

 



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ごきげんよう

 

さよなら子供たち

 

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みんな子供だった

 

あれはまだ私が保育園の頃だ。

ある日の遠足の出来事。

みんなで山を登った。

昼食の時間になるとみんながそれぞれ持参した

弁当を広げた。

タコウインナーや卵焼き

それにメロンやなんかも入ったしゃれた弁当の子もいてね、とてもにぎやかだった。

 

私も早速カバンから自分の弁当を取り出して

蓋を開けたのだけれども愕然とした。

白ご飯に黒光りした昆布が乗っているだけの

なんとも殺風景な弁当だった。

辺りのにぎやかさとは裏腹に私は強烈な惨めさに襲われた。

「みんなの弁当とぜんぜんちがう!」

こんな弁当を持たせた母に怒りすら覚えた。

 

私は恥ずかしさでいっぱいになり

ひとり離れた場所に座り

昆布のこびりついた蓋で弁当を隠した。

「誰にも見られたくない」そんな思いで

泣きながら急いで白ご飯と昆布を口に掻き込んだ。

一刻も早くこの殺風景で貧相で惨めなモノクロ弁当

をこの世から抹殺したかったからだ。

 

今となっては笑い話だが

子供はちょっとした事で傷付くんだね。

 

傷付かない子供はいない。

誰もが傷付きながら大人になる。

 

自我を超えて

 

「私」という思い

その思いは自我の芽生えだ。

私と他者という境界の線引きと比較は自我の芽生えと共に成長して行く。

先にも述べた“弁当のお話し”の様に子供の頃から比較競争は既に始まっているのだ。

無意識のうちに自分の弁当と他者の弁当を比較して

優劣を決めていたんだね。

 

考えてみればその比較競争はずっと続いて行く。

学校の成績

就職

地位や名誉

競争化社会

 

一体誰に勝ち、誰に負けるというのか?

実は母が持たせてくれた弁当

それだけで十分幸せではなかったのか?

 

仏陀は言った。

”平静であって、常によく気をつけていて、

世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。

また自分が優れているとも思わないし、

また劣っているとも思わない。

彼には煩悩の燃え盛ることがない”

(ブッダのことば~スッタニパータ~中村元訳より)

 

比較は苦を生むだけだ。

 

前に何かのテレビ番組で観たのだけれど

地位も名誉も財産も

全て手に入れた男の話をやっててね。

その男が豪華な自分の船に乗って

高級食材を前にして

ワイン片手にインタビューを受けていた。

 

幸せについて訊かれた時

男は海を眺めながら言った

「あの若者らを見てご覧よ。輝いててるね。

実に幸せそうだ」と。

 

その視線の先にあったのは

小さなボ-トを漕いで

はしゃいでいる若者たちの姿だった。

 

つまり何が言いたいかというとね。

比較というシーソーゲームから降りる事だよ。

 

比べるべきものなどなにひとつないし

あなた意外誰も居やしないのだから。

 

その証拠にあなたの子供時代のあなたや

あなたの周りにいた子供たちも

もう何処にも存在しない。

 

今も変わらずにあるのは

目撃者でもなく

目撃されたものでもなく

“目撃”だけだ。

 

もしあなたの中で悲痛な子供時代を

その傷付いた子供を

握りしめているならば放してあげなさい

 

「よく頑張ったね、さようなら」と言って。

 

あなたは今でもそしてこれからも

透明なままだ。

 

 

ごきげんよう

 

あなたの身体はこの宇宙

仏陀はこの世をかげろうの如しと見よと言った

 

私たちが普段見慣れている風景

いつも通る並木道や建物たち

家に帰ればもう何年もそこにある家具

一見何も変わらないように思える。

テーブルに触れれば確かな感触があり

ずっとそこにあってじっとしているように見える。

 

しかし原子のレベルで見れば

物質というのは振動していて隙間だらけだという。

だから鋼鉄の柱でも素粒子はそこに何も無いかの如く

いとも簡単にすり抜けるそうだ。

 

世界は揺らぎ動き続けている。

つまりそれはあなたの部屋で

じっとしているように見えるテーブルも

変化の中にあるということだ。

例えばあなたがそこでじっとしていても

身体の細胞は分裂して

増殖と破壊と再生を繰り返しているのと同じように。

 

私たちの住むこの太陽系も

巨大なブラックホールの重力に引き寄せられて

円盤状に渦巻く天の川銀河の端を猛スピードで移動しているのだそうだ。

もっともそんな実感はまるでないがね。

 

しかしあなたの身体が

刻一刻と変化し続けているように

確実に何もかもが変化し続けている

この宇宙も未だに加速膨張を続けて変化の中にあり

留まる事を知らない。

 

これら全ての事柄はあなたの意識内にある。

森羅万象は意識があるが故にある。

 

そう

あなたは名前も形もない意識だ。

 

そしてこの宇宙があなたの身体だ!

 

方丈記にもあったね

“ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず”

とね。

 

身体はあなたではないのさ。

 

仏陀は言った。

“世の中は泡沫のごとしと見よ。

世の中はかげろうのごとしと見よ。

世の中をこのように観ずる人は、

死王もかれを見ることがない。”

(ブッダの真理のことば~ダンマパダ~中村元訳より)


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ごきげんよう

手ぶらポエム「無垢な瞳」

「無垢な瞳」手ぶらの乞食


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道路沿いの脇の駐車場に

バックミラーが横たわっている

彼は彼であることを知らない

ただ移ろい行く景色を見ている

 

空の青が淡い黄や薄紫

それからほのかなピンクに染まるのを見た

燦々と輝く太陽も夕陽に滲む鮮やかなオレンジも

夜になれば闇の中に浮かぶ黄金の月と瞬く星たちも

 

まるで幼子のように彼はなにも知らなかった

光りの織りなす模様だけが漠然と流れて行った

彼には世界と自分を隔てる境界がない

 

彼は彼を見ている

 

かつてはわたしもそうだっように

 

 

楽曲「拝啓トーベンクールマン」手ぶらの乞食

https://youtu.be/E7-cU_OwU84

YouTube手ぶらチャンネル

儚さを引き連れて

全ては儚い

 

「いつか何処かで見た光景だな」

「ずっと前にもこんな経験しなかったかな」

そんなデジャブな感覚を持ったことはないかい?

今まさに体験していることを過去に経験したことがあるかの様な感覚。

これをデジャブ(既視感)と言うのだけれど

体験したことも含めて“既知感”とも呼ばれる。

フロイトはこのデジャブを既に見た夢だ、とした。

それはその通りなのかもしれない。

 

例えば誰かが打ったホームラン。

美しい放物線を描き

スタンドへ吸い込まれて行く。

しかしバットが球に触れた“瞬間”を捉えることは出来ない。

必ずあなたというフィルターを通さなければならないから物質そのものを見たり触れたりすることは出来ないのではないだろうか。

 

はて

美しい放物線?

そんなものは本当にあったのだろうか?

遠雷が光った時、遅れて音がやって来るのと同じで

既にそれはもう過去の出来事でしかない。

 

だってそうだろ?

空高く舞い上がった打球もスタンドへ放り込まれて

美しく弧を描いて飛んだ足跡もない。

 

「いつか何処かで見た光景だな」

それはついさっき見た

今は亡き儚い過去の世界の出来事なのだから。

 

慣れ親しんだ土地を離れる時

その地の思い出が走馬灯のように過ぎるように

今あなたが目の前にしている光景も

“それ”なのだよ。

たった今、思い出を見ている。

 

辺りを見回してみるといい。

どうだい?

懐かしくないかい?

 



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ごきげんよう

ストレンジデイズ

世界の材料


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世界はあなたの印象で出来ている。

あなたがどんよりしてれば

どんよりした世界が表れる。

例えばあなたが「あの人は嫌いだ」としよう。

ある人にとっては

あなたの嫌いな人が好きかもしれないし

或いはそのどちらでもないかもしれない。

その人の印象は人によって様々だ。

これはつまり世界はあなたによって

色付けされているということだ。

美しいものも醜いものも

あらゆる事物があなた次第で色が変わる。

 

「あの人は嫌いだ」と言うのは

その人の嫌な部分をわざわざ切り取って

色付けしてるんだね。

その色はあなたの内面にあるから

その人の嫌な部分として浮上して来る。

あなたの内面にあるその色をそこに置かなければその人の嫌な部分というのは全く見えないはずだ。

「あの人は嫌いだ」とあなたが言うその人は

あなたの中にだけ存在する、あなたの世界の住人だ。

つまりね。

世界というのはあなたの仮の姿だよ。

海も山も川も空も嫌いな人も好きな人も。

そしてあなたの身体さえもね。

 

 

滅びた世界

 

世界というのは蜃気楼の様なものだ。

太古の昔にこの大地を闊歩した恐竜たち。

今現在その恐竜たちが居るだろうか?

ティラノザウルスやトリケラトプスを何処かで見かけたことがあるかね?

日本狼や日本カワウソもそうだが

今はもう絶滅してこの世界には存在しない。

だとしたらだね

今この世界に住む人たちはどうだろうか?

時間というのは容赦なく経過して行く。

今生存している全ての人間は恐らく200年後には誰も存在していないだろう。

この地球もやがては赤色巨星と化した太陽に

全て焼き付くされる運命にある。

そう、

あなたは既に滅亡した世界を体現しているのだ。

際の際に人は走馬灯の様にその生涯を垣間見るというが

まさに今あなたの目の前の世界がそれだ。

 

 

だからね。

夢幻の様な世界を

あなたの世界の住人を

あなたの儚いその世界を抱きしめてあげなさい。

 

その世界を抱きしめてあげられるのは

あなたしかいないのだから……

 


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ごきげんよう